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第1期
6月28、29日(木、金) 晴れ時々曇り
東日本大震災から7年以上が過ぎました。大阪府が職員を派遣している岩手県のうち、釜石市、大槌町、大船渡市、陸前高田市を視察しました。
釜石市は2019年開催のラグビーW杯の会場の1つです。JR釜石駅にはカウントダウンの看板がありました(写真1)。2試合が開かれる予定です。
釜石駅から北へ5キロほど離れた鵜住居(うのすまい)地区でスタジアムが建設中です(写真2)。最寄り駅となる鵜住居駅や鉄道路線も復旧工事が進んでいました。
次は大槌町へ。津波で当時の町長はじめ多くの町職員が命を落とした旧庁舎は取り壊しが決まり、囲いがされています(写真3)。手前に見える小屋には千羽鶴などが供えられていました。
平野公三町長(写真4、左から4人目)は大阪北部の地震にお見舞いの意を表されたのち、発災当時から今までのできごとを振り返り、思いを語ってくれました。全国各地から来た派遣職員と町職員の連携協力の難しさ、復興計画の当初見込みと現実のずれ、国の支援がなくなった後を見込んだ対応・・・、いつ起こってもおかしくない南海トラフ地震への備えに生かなければならない、と痛感しました。
2日目はまず大船渡市で建設が進む高さ7メートルの防潮堤を見ました(写真5)。過去の津波被害の高さが分かるようになっていますが、東日本大震災の津波は防潮堤を軽く越す高さでした。私たちが訪れた野々田地区は地下34メートルまで杭を打ち、防潮堤を支えています。
続いて陸前高田市へ。こちらは高さ12メートルの防潮堤を建設中です。すでに完成した区間で上がらせてもらい、説明を受けました(写真6)。写真の左側が海で、こちらは松原を復元すべく植林を進めています。
この日は陸前高田市観光物産協会から「語り部」の方に来てもらい、旧気仙中学校の生徒の避難の様子や、ご自身の被災体験などをお聞きしました(写真7)。歴史を語り継ぐことで悲劇を繰り返させない、との思いがにじみ出ていました。
海岸線を北へ向かうと防潮堤の工事現場が見えました(写真8)。最後の1枚は有名な「奇跡の一本松」(写真9)です。写真の左側にはかつての道の駅の建物、右側は防潮堤があり、今なお建機が動き回っています。この現実を見据え、粘り強く取り組んでいくしかないのでしょうか。
6月21日(木) 晴れ
大阪の空の玄関口、大阪国際(伊丹)空港のターミナルビルは1969年の完成から初めての大規模な改修工事が進められています。この日は4月に工事を終え、運用している場所などを視察しました。
まず、航空会社によって南北に分かれていた到着口を中央に集約、バスやモノレール乗り場への移動が楽になりました。(写真1)
また、商業エリアには黒門市場のマグロ専門店や、空港としては世界初というワイン醸造所を併設したワインバルなど34の飲食・物販店舗が入居しています。
屋上の展望デッキも面積を1.5倍に広げ(写真2)、子ども向けの遊び場を併設した玩具店や、航空機の離着陸を眺められるカフェを設置、航空旅客以外の利用拡大を狙います。今後は搭乗エリアのエスカレーター設置などを進め、2020年夏の全面完成を目指しています。
同空港を運営する関西エアポート株式会社の担当役員は「利用した人たちに『また来たい』と思ってもらえる空港にしていく」と意気込みを語っていました。
おまけの1枚、出発案内は今なお昔ながらの回転式表示板が現役で使われています。(写真3)
6月14,15日(木、金) くもり時々雨
まず、原子力防災・危機管理をはじめ、原子力工学の基礎から応用など幅広い分野の人材育成を進めている福井大学附属国際原子力工学研究所(福井県敦賀市)にお伺いしました。(写真1,2)
2012(平成24)年春に敦賀駅から徒歩3分の現在地に移転、大学3,4年生と大学院修士、博士課程の学生が学んでいます。アジア各国からの留学生も受け入れています。原子力発電所の集中する福井県嶺南地方に立地しているため、実物をすぐに見に行けるのが強みです。
敦賀市の防災会議に研究所も出席し、原子力災害に備え平時は教育啓発、有事は市役所で支援する体制をとっています。敦賀市のケーブルテレビには市内観測点の放射線量が常に流されており、意識づけに役立っていると考えられます。
2日目は関西電力大飯原子力発電所(福井県おおい町)を訪れました。見学者施設「エルガイアおおい」(写真3)でビデオによる安全対策の説明を受けた後、大飯発電所内をバスで案内してもらいました。使用済み核燃料を保管するプールをはじめ、大規模災害時の備えについてお聞きしました。
原子力発電をめぐっては大きく意見が分かれています。少なくともいずれ寿命がくる発電所をどう安全に後始末するかは避けて通れない課題です。「核のごみ」の処理も合わせ、難問が山積しています。
大きく話題は変わります。敦賀市は戦前、ロシア・ウラジオストク市と定期旅客航路があり、日本と欧州を結ぶ出入り口となっていました。その過去を語り継ぐのが「人道の港 敦賀ムゼウム」です。(写真4,5)
1920年にポーランド孤児、1940年には杉原千畝氏が発行した「命のビザ」で逃げてきたユダヤ人難民が敦賀港に上陸しました。それぞれ次の目的地へ向かうまでの短期間とはいえ、当時をしのんで生き残った人たちやその子孫が今もなおこの施設にやってくるそうです。
市内にはかつてソ連(当時)の領事館もありました(写真6)。今とは大きく異なる人の流れがあった証拠です。街の記憶を大切に語り継いでいってほしいですね。
おまけの1枚。敦賀駅から続く商店街の各所に松本零士氏の「銀河鉄道999」にちなんだ彫刻があります。これは主人公、星野鉄郎が旅を終えメーテルと別れる場面です(写真7)。